深夜2時、PagerDutyのアラートが鳴り響きます。原因はデータベースのCPUスパイクではなく、重要度の低いサードパーティAPIの応答遅延でした。たった200msのレイテンシ増加が、メインサービスのコネクションプールを枯渇させ、連鎖的な障害(Cascading Failure)を引き起こし、システム全体をダウンさせました。このシナリオは、単体テストや統合テストでは決して検出できません。分散システムの不確実性に対処するには、カオスエンジニアリングの原則と4段階実験プロセスに基づいた、プロアクティブな障害注入が必要です。
定常状態の定義と仮説の構築
カオスエンジニアリングは、単に本番環境でサーバーをランダムに再起動することではありません。科学的な実験プロセスです。まず、システムが正常に動作している状態、すなわち「定常状態(Steady State)」を定義する必要があります。これには、スループット、エラー率、レイテンシ(P95, P99)などのゴールデンシグナルを用います。
爆発半径(Blast Radius)の制御
実験は常に最小限の影響範囲から開始します。最初は単一のカナリアインスタンス、次に特定のAZ(アベイラビリティゾーン)、最終的にリージョン全体へと拡大します。Netflix Chaos Monkey導入事例が示すように、制御不能な実験は顧客体験を損なうリスクがあります。
Kubernetes環境でのChaos Mesh活用
コンテナオーケストレーション環境、特にKubernetesにおいては、Podのライフサイクルは揮発的です。ここでは、CNCFのサンドボックスプロジェクトであるChaos Meshを使用して、ネットワークレイヤーでの障害をシミュレーションします。
以下のマニフェストは、`payment-service`というラベルを持つPodに対して、100ミリ秒のネットワーク遅延を注入する実験定義です。これにより、依存サービスがタイムアウト設定を適切に処理できるか、リトライストーム(Retry Storm)が発生しないかを検証します。
# NetworkChaos定義: 決済サービスへのレイテンシ注入
apiVersion: chaos-mesh.org/v1alpha1
kind: NetworkChaos
metadata:
name: payment-latency-injection
namespace: chaos-testing
spec:
action: delay
mode: one # 対象Podの選択モード(one, all, fixedなど)
selector:
namespaces:
- default
labelSelectors:
"app": "payment-service"
delay:
latency: "100ms"
correlation: "100" # 遅延の相関関係(100%のパケットに影響)
jitter: "10ms" # ネットワークの揺らぎを再現
duration: "300s" # 実験継続時間
scheduler:
cron: "@every 10m" # 定期実行スケジュール
マイクロサービス障害分離テストとGameDayの運営
実験を実施する日を「GameDay」と呼びます。GameDayの目的は、障害発生時のチームの対応能力を確認し、システムが想定通りにフォールバック(Fallback)するかを確認することです。
例えば、推奨エンジン(Recommendation Service)がダウンした場合、eコマースサイトのトップページは「500 Internal Server Error」を返すべきではありません。「人気の商品」リストが表示されないだけで、検索や購入機能は維持されるべきです。これをマイクロサービス障害分離(Fault Isolation)と呼びます。
実験シナリオ設計のチェックリスト
- 仮説: 推奨エンジンが応答しない場合でも、トップページのロード時間は2秒以内である。
- 注入: Chaos Meshを使用し、推奨サービスのPodを強制終了(PodKill)、またはパケットロス(PacketLoss)を発生させる。
- 計測: Prometheusでフロントエンドのレイテンシとエラートレートを監視。
- 判定: サーキットブレーカー(Circuit Breaker)が作動し、デフォルトのコンテンツが配信されたか?
| 比較項目 | 従来のテスト手法 | カオスエンジニアリング |
|---|---|---|
| 対象 | 既知の条件(Happy Path, Edge Cases) | 未知の障害条件(Network Partition, Resource Exhaustion) |
| 環境 | ステージング、QA環境 | 本番環境(理想的)、またはそれに近い環境 |
| 目的 | 機能要件の確認 | システム全体の回復力(Resilience)の証明 |
| アプローチ | バイナリ判定(Pass/Fail) | システムの振る舞いの探求と学習 |
アプリケーション層での回復力実装
インフラレベルでの障害注入に対して、アプリケーションコードが防御的である必要があります。以下はGo言語を用いた、外部サービス呼び出しに対するサーキットブレーカーパターンの実装例です。単純なタイムアウト設定だけでは不十分であり、障害が検知された場合は即座に遮断してシステムリソースを保護する必要があります。
// GoでのHystrixライクなサーキットブレーカー実装パターン
// 外部依存サービスの障害時にFail-Fastを行う
import (
"github.com/sony/gobreaker"
"io/ioutil"
"net/http"
"time"
)
var cb *gobreaker.CircuitBreaker
func init() {
var st gobreaker.Settings
st.Name = "InventoryService"
st.MaxRequests = 5 // 半開(Half-Open)状態で許可するリクエスト数
st.Interval = 60 * time.Second // エラーカウントをクリアする間隔
st.Timeout = 30 * time.Second // OpenからHalf-Openに遷移するまでの待機時間
// トリップ条件: リクエスト数が一定以上かつエラー率が60%を超えた場合
st.ReadyToTrip = func(counts gobreaker.Counts) bool {
failureRatio := float64(counts.TotalFailures) / float64(counts.Requests)
return counts.Requests >= 10 && failureRatio >= 0.6
}
cb = gobreaker.NewCircuitBreaker(st)
}
func GetInventory(itemID string) (string, error) {
// Execute内で保護された呼び出しを行う
body, err := cb.Execute(func() (interface{}, error) {
resp, err := http.Get("http://inventory-service/items/" + itemID)
if err != nil {
return nil, err
}
defer resp.Body.Close()
if resp.StatusCode >= 500 {
return nil, fmt.Errorf("server error")
}
return ioutil.ReadAll(resp.Body)
})
if err != nil {
// Fallbackロジック: キャッシュデータの返却やデフォルト値の設定
return "Stock info unavailable", nil
}
return string(body.([]byte)), nil
}
自動化の罠
カオス実験をCI/CDパイプラインに組み込むことは最終目標ですが、初期段階では手動実行(Manual Execution)を推奨します。可観測性(Observability)が不十分な状態で自動化すると、原因不明のビルド失敗やデプロイ遅延を引き起こし、開発チームの生産性を著しく低下させる可能性があります。
信頼性の高いシステムとは、障害が発生しないシステムではなく、障害が発生しても機能を維持し、自己修復できるシステムです。MTBF(平均故障間隔)の延長に固執するのではなく、カオスエンジニアリングを通じてMTTR(平均復旧時間)を短縮することに注力してください。本番環境は常に変化しており、今日の安定が明日の安全を保証するものではありません。
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